サッカー②

では、2019年のサッカーでは何が起こっているのだろうか。感情の昂りはどこからもたらされているのだろう。
日常生活において混沌を実感する機会はあまりない。社会は十分に構造化され、まんべんなく記号化している。そんな記号の海から逃れたいと私は願う。私の人生や感情を記号の内に閉じ込めることが死ぬほど嫌だから。つまり混沌を求めている。そしてこの世界でも混沌に身を浸すことができる場がある。私にとってそれは芸術の場であり、サッカーの場でもある。
話が大きくなってしまったのでサッカーの試合に目を向けてみよう。トップレベルにおいてサッカーの抽象化はある程度のレベルで達成されており、しかもその知は広く浸透している。サポーターであっても試合で見られるシステムは把握することができるのだ。しかしその抽象に囚われないあまりにも強烈な具象もまた存在する。例えば、リバプールやマンチェスター・シティのようなチームにたまに見ることができる、構造だけを考えると不可解な動きがそれである。当然のごとく構造だけでは対処できない状況は常に発生するが、その状況に対して、まるでチームが一つの生命体のように連動するのだ。しかも、チームメイト同士の瞬間的な閃きによる再現性のない連動ではなく、閃きの思考の流れ自体はいつでも生み出すことができるほどに練度が高くなっている。このレベルの練度は驚くべきことであるし、今後このような連動は今後より多くのチームで見られるだろうと思う。構造化しその実現のクオリティー向上を経たからこそ手に入れられる能力である。
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サッカー①

「試合の構造を抽出し、構造が要請する行為を遂行する」ということが近年サッカーの世界でも非常にしばしば見られる。現実のなかでルールに則った動きをするためには頭も肉体もフル回転させなくてはいけない。インストールされたプログラムを円滑に実行する必要がある。このような状況において、いわゆるファンタジスタ的なプレーヤーやプレーが生きることはとても難しい。もちろん、フィニッシュや展開の局面においてある程度の創造性は必要ではあるが、あくまでプログラムの前提があるうえで成立させなくてはいけない。これによって「サッカーのロマン」のようなものは確かに薄れているのだろう。
ただ、私はフットボールの構造主義をとても興味深く感じた。構造を抽出するということを音楽に置き換えると、「作曲する」と言うことができる。作曲とはそもそも音楽として成立する現象を構造化/抽象化/図形化/記号化する作業であり、合奏などをとても効率よく行うことができる。もちろん、個々人の実際の演奏は構造化されたもの以外の要素が入り込むし、合奏も然りではあるが。
ここで重要なことは、サッカーにおいても音楽においても構造化したことで全てが丸く収まる訳ではないということだ。構造化は所詮構造化である。構造化することによって認知の速度が飛躍的に上昇したり、従来とは異なった角度からの認知を可能にするのだが、本質はまた別のところにある。私は現象に構造を照らし合わせることによって浮かび上がる混沌に注目したい。そもそも現象は混沌であり、そこから構造を抽出する。そしてさらにその構造から混沌を抽出するという二重の作業がある。この二重作業から得た混沌の様相はそれ以前とは異なって見える。むしろ混沌そのものは変わっていないはずだと思うのだが、視線の解像度が上がるのだろう。現代サッカーはまさにこの高解像度のもと行われる営みなのだ。
たしかに遠回りして辿り着いた地点だとも感じる。数年前には純粋な構造体を追い求めるフェーズもあった。しかし、混沌は人の営みをいとも簡単に凌駕する。それを認識できただけでも成果と言えるかもしれない。しかし人はその混沌に立ち向かおうと試みる。決して混沌を打ち負かせようとするのではなく、混沌と自身のお互いにとってよりよい立ち位置を探るかのような志向になるのだ。

anoxia研究会~物と声♯1~@anoxia

話は「4’33”」から始まりました。やはり避けて通れない。。そこから「rainforest」や「ナンバーピース」を参照しながらそもそも音楽とは一体何なのだろうかという流れになりました。今回私はある考え方の提案をしました。それは、「いい音楽/悪い音楽というものはない。あるのは音楽/音楽に至らない音の塊だ」ということです。つまり、音楽だと感じられるワクワクする音の塊と、まるで音楽のような外見をしていますが実際は死んでいる音の塊のどちらかでしかない。もちろん私の演奏によって起こる何かも含めて。たしかに乱暴な括りですし、二項対立もあまり好きではないのですが、このように考えてみると何か突破口が見えてくるのではないかと私は考えています。存在が話しかけてくる声が聞こえるか聞こえないか。そこに耳を向けたいと思っています。
声が聞こえる場合は非常に稀です。通常聞こえませんので、聞こえたら本当に幸福を感じます。音楽に限らず美術、舞台芸術、映画など方法が違っていても同様であるのではないでしょうか。もっとも、今述べている「声」は概念ですので具体的にこれと示すことはできません。私の言い回しです。ですが、ある作品に強烈に感動した体験がある方には言わんとしていることのニュアンスを朧げに感じ取っていただけたら嬉しいです。「音楽」を愛するケージは、存在の声を聞こうとしていたのではないかと私は思っています。

能 「梅枝」

能は舞や音、物語など非常にたくさんの要素から構成されているが、今回は音に焦点を当てて述べていきたい。能曲は謡(歌)と囃子(能管・鼓)の組み合わせで演奏される。さらに、それぞれのパートには演奏のための型がありそれの組み合わせが場に提示される。つまり、組み合わせ同士を掛け合わせたものであり、順列組み合わせで相当数の状況を作り出せる。が、問題は型がどうこうということではない。際立った者による演奏は驚くほど生き生きしている。要素に分解して考えてみると起こる出来事に謎や不条理な部分はなく、明確な論理がある。けれども「音楽」からはどこまでも底の見えない空間と存在の発する強い声がある。
この理由は何か。掘り下げて考えてみると、実際に出す音よりもむしろその音の背景や演奏者の物の見方が普通ではないということがまずは考えられるのではないだろうか。彼らが何のために音を出し、音楽が何のために存在しているのかということが分からないとこの音楽に永遠に届かない。どこまでも型を積み上げることによって到達する地点で何が起こっているのか。
この問題に対する現在私が持っている答えの一つは、「物事の凝視」だ。できるだけゆっくりと時間をかけて物事を眺めること。動作を普段の速度でパッと行うのではなく、段々と動作をする自分の身体や精神にまで目が及んでしまうくらいにゆっくりと行う。凝視のフィードバックが発生し、ある臨界を超えるとハウリングも起きる。行為の過大入出力が連続する。この状態から繰り出される型の切れ味が通常状態と少々異なるであろうことは容易に想像できるだろう。

藤井龍徳「裏庭の出来事―長屋からの報告―」

とても古い家屋3軒のうち計7部屋に作品が展示されている。部屋ごとに作品の素材・方法は異なる。元々土間でその上をコンクリートで固めてあった箇所(数年前まで魚屋だった)のコンクリートに穴を開けてそのコンクリートの残骸を大きさごとに分けて棚に並べてある作品や、道に面した一室の道側にある出入り口を封鎖し、地上50センチメートルぐらいのところに一直線にわずかな隙間がありそこから外の光や通行人の足が少しだけ見えるという作品などがあった。
藤井さんの作品制作は展示される(または作品を制作する)現場で起こっている出来事について観測することから始まると考えられる。放射線量、光の窓からの入り方、風量、過去に起こった事件の記録などなど。それらは厳密に数値化されることもあるし、数値化されなくとも移り変わる変化に意識を向けることとなる。そして作品にその観測結果を刻みこむ。展覧会会期中に変化する値がリアルタイムでその痕跡を残していく作品もある。
「観測」という言葉を用いたが、実際はその冷たい響きに反してとても優しい。もちろん見えたものを好き嫌いで判断せずできるだけフラットに情報として受容しようとする冷徹な視線もあるのだが、その膨大な量と対峙しようとする姿勢からは自分のできる限りしっかり見届けようとしようとする意思も感じる。しっかりと時間をかけて物事を見るということの重要性を改めて感じたし、そこから生まれる作品が物語る声の強さに胸を打たれた。

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